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第2話 仏壇の奥の白い子

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-07-27 18:56:24

 閉じきった障子へ、燈夜の拳が叩き込まれた。

 桟が折れ、白い紙が内側へ破れる。怜吾のライトが穴を貫いたが、その向こうにあったのは、染みだらけの畳と空の押入れだけだった。

 子どもの形をした影も、笑った口もない。

「ほら、何もいねえ」

 燈夜はもう一度殴り、穴を大きくした。さっきまで動けずにいたことを、木と紙の脆さごと打ち消そうとするような乱暴さだった。

「古い家なんだから、傾いて勝手に閉まったんだろ」

「順番に?」

 ちとせが低く尋ねる。

「風には流れってもんがあんだよ」

「無風だったけど」

 怜吾の指摘に、燈夜の眉が動く。

「じゃあ、おまえが仕込んだんじゃねえの?」

「その言い方、使えるな。仲間割れって見出しにする?」

 怜吾は平坦に返し、破れた障子をゆっくり映した。カメラを下ろそうとはしない。液晶の隅には、一万を越えた接続数と、目で追えない速さのコメントが流れ続けていた。

『ガチで閉まった』

『最後の障子に顔あった』

『逃げろ』

『さっきの影どこ?』

『演技下手』

 美怜は「演技」という二文字を見つけ、喉に引っかかっていた息を笑いへ変えた。

「だってさ。怖がって損した」

 カメラへ顔を寄せ、唇を吊り上げる。

「仕込みだと思うなら、最後まで見て暴いてみれば? 途中で逃げたやつは負けね」

 震えてはいない。声にも普段通りの張りがある。そう確かめると、心臓の速さは恐怖ではなく興奮だと思えた。

 美怜は障子へ中指を立て、階段へ向かった。

「二階、ハズレ。次、一階潰そ」

 降りる五人の背後で、破られた紙が微かに鳴った。

 誰も振り返らなかった。

     *

 一階の廊下は、上階よりも湿気が濃かった。

 壁紙はところどころ膨れ、天井から垂れた蜘蛛の糸が頬へまとわりつく。燈夜の煙草はいつの間にか火が消えていた。舌打ちしながら火をつけ直しても、先端が赤くなるだけで、ひと息吸うとまた黒く沈む。

「ここ、酸素薄いんじゃね?」

「だったら煙草しまいなよ。先にあんたが消える」

 イオは冗談めかして笑ったが、燈夜から離れずに歩いていた。

 廊下の突き当たりに、二枚の襖があった。

 黄ばんだ紙へ、子どもの手形に似た染みがいくつも重なっている。腰の高さより下ばかりに付き、指先だけが廊下の奥を向いていた。

「この部屋」

 ちとせが足を止めた。

「知ってんの?」

「座敷があるって古い間取りに書かれてた。繭守家は人形を渡す前、ここで依頼人と一緒に祈祷したらしいよ」

「その間取り、どこで見たの?」

 怜吾がカメラ越しに尋ねた。

 ちとせは襖の染みを見たまま、少し遅れて笑う。

「郷土資料。ほら、そういうの探すのが私の役目じゃん」

 美怜は会話へ割り込み、襖の取っ手に指をかけた。湿った紙の冷たさがネイルの下へ染みる。

「祈祷部屋、開けまーす」

 左右へ一気に引いた。

 淀んだ空気が、押し出されるように五人の顔へ触れた。

 八畳ほどの座敷だった。中央には低い座卓があり、その上に空の湯呑みが置かれている。壁際の床の間には、色の抜けた掛け軸。隣には天井へ届きそうな黒い仏壇があった。

 埃に沈んだ部屋の中で、仏壇の前だけが妙に黒く濡れている。

 線香の匂いがした。

 庭で嗅いだものより新しく、灰の熱まで残っていそうな濃さだった。

「誰か住んでる?」

 イオが小声で言う。

「住んでたら不法侵入じゃん」

 美怜が笑うと、コメントが一斉に流れた。

『最初から不法侵入だろ』

『仏壇触るなよ』

『線香あげたの誰』

『座卓の下にいる』

 怜吾がライトを下げた。

 座卓の下には何もいなかった。ただ、畳の上に細長い擦れ跡がある。仏壇から座卓の下まで、何かを這わせたように埃が途切れていた。

 燈夜は靴のまま座敷へ入り、仏壇の扉を開いた。

 中には位牌が並んでいた。

 黒い漆は白く曇り、金文字の多くは剥がれている。その前に、ひび割れた飯椀と水の濁った湯呑みが供えられていた。飯椀の底には、乾いた米粒が数粒こびりついている。

「いつのだよ、これ」

 燈夜が指で米粒を弾く。

「やめときなって」

 ちとせが言った。

 これまでの軽い忠告とは違った。声が短く、口元から笑みが消えている。

「人形は道具でも、仏壇は家の人のものだから」

「家の人、いねえじゃん」

「いないことと、帰ってこないことは同じじゃないよ」

「それ、怪談っぽく言ってるだけだろ」

 燈夜は鼻で笑い、最も大きな位牌をつかんだ。カメラへ見せつけるように振ってから、元の場所へ放り込む。位牌同士がぶつかり、乾いた音が座敷へ散った。

 どこか遠くで、女の声がした。

 あ、と息を呑んだだけのような、か細い声だった。

 美怜は廊下を振り返る。暗い廊下の先には玄関から差す機材の光があり、その途中を何か白いものが横切った。

「今、誰か外に――」

 言い終えるより先に、燈夜が仏壇の下部を蹴った。

 重い音が響き、黒い厨子が壁へぶつかる。中の仏具が倒れ、鈴が一度だけ鳴った。

「出てこいよ。守ってんなら守ってみろ!」

 もう一度、足が上がる。

「燈夜、壊すなら画角入って」

 怜吾が横へ回った。

「そっちかよ」

 イオが吹き出し、美怜も笑った。廊下の白いものについて口にする機会を失い、そのまま忘れたふりをした。

 三度目の蹴りで、仏壇が前へ傾いた。

 位牌が雪崩れ落ちる。鈴と燭台が畳を転がり、濁った水が黒い筋を引いた。燈夜が側面へ肩を当てると、仏壇は耐えきれず横倒しになった。

 地響きに似た衝撃が座敷を揺らす。

 背面の薄い板が外れた。

 仏壇と壁の間から、赤黒い布の包みが滑り落ちた。

 長さは人間の赤子ほどだった。

 布には古い血のような染みが広がり、幾重にも巻かれた紐で固く縛られている。転がった拍子に一方の端がほどけ、黒い髪が畳へこぼれた。

「当たり」

 燈夜の口元が歪む。

「待って」

 ちとせがその腕をつかんだ。

 彼女は包みではなく、紐の結び目を見ていた。赤い紐と、汚れて灰色になった白い紐。交差の仕方は五人の手首に巻かれたものと似ていたが、ちとせはそれに触れようとしない。

「奉納人形じゃない」

「何が違うの?」

「奉納するなら、見える場所に置く。箱に入れて名前か願いを書く。こんなふうに仏壇の裏板を外して、壁との隙間へ押し込んだりしない」

 ちとせは乾いた唇を舐めた。

「これは祀ったんじゃない。隠したんだ」

 その言葉が落ちると、鈴が鳴った。

 誰の足も触れていない。畳の上に倒れたまま、ちりん、と一度。

 イオの笑顔が引きつる。

「でもさ、誰かが最近仕込んだんじゃない? 布だけ古くして」

「それなら大成功」

 怜吾はしゃがみ込み、レンズを包みへ寄せた。液晶画面の中で、髪の一本一本が細く光る。

「触る前の絵、撮れた」

「じゃあ解禁だな」

 燈夜はちとせの手を振り払い、布を縛る紐へ指をかけた。

 結び目は見た目より脆く、わずかに引いただけで崩れた。赤黒い布が左右へ開き、中に包まれていた顔が現れる。

 白い市松人形だった。

 白磁のような顔に、額から右目を横切るひびが走っている。頬はふっくらとしているのに、瞳は黒く落ち窪み、光を返さない。色褪せた唇だけがわずかに開いていた。

 その隙間に、歯が並んでいる。

 米粒ほどの飾りではなかった。前歯には薄い透明感があり、犬歯の先はわずかに尖っている。歯と歯の隙間には茶色い汚れまで入り込み、歯茎にあたる部分は乾いた肉のように暗赤色だった。

 甘いような、生臭いような臭いが布の内側から立ち上る。

「うわ」

 イオが鼻を押さえながらも、顔を近づけた。

「入れ歯みたい。職人、本気出しすぎじゃない?」

『口の中、本物の歯じゃない?』

『子どもの歯に見える』

『触るな』

『布に包み直せ』

『さっきより髪長くなってる』

「本物だって」

 美怜が読み上げる。

 怜吾はライトを強くし、人形の口元へ向けた。

「歯根までは見えない。骨か樹脂かも分からないな。古い人形に人毛や抜けた乳歯を使う例はある」

「乳歯なら可愛いじゃん」

 燈夜は人形の髪をつかみ、一気に持ち上げた。

 白い顔が布から抜ける。着物は元の色が分からないほど変色し、裾から白い足袋のような足が垂れた。髪に全体重を預けているはずなのに一本も抜けず、頭皮の下から湿った革を引くような音がした。

 ぎ、と人形の口が開く。

 燈夜の指が一瞬緩んだ。

「今、動いた?」

「揺れただけだろ」

 美怜に答えながら、燈夜は人形を持つ腕を高くした。自分の顔と並べ、煙草を人形の唇へ差し込もうとする。

「吸うか、白いの」

 煙草の先が歯に触れた。

 かちり。

 上下の歯が閉じ、煙草を挟んだ。

 燈夜は目を見開いたが、すぐに大声で笑った。

「噛みやがった! こいつ、根性あるじゃん」

 首を振るたび、長い黒髪が腕へ巻きつく。

「ちょっと貸して。写真撮る」

 イオが人形を受け取った。両手で胴を抱き、頬を寄せる。人形の白い顔と、イオの整った顔が画面の中で並んだ。

「どっちが可愛い?」

『人形』

『右』

『髪、肩までだったよな?』

『今もう腰まである』

『後ろの襖から指出てる』

 コメントを追っていた美怜は、思わずイオの髪ではなく人形の髪へ目を向けた。

 最初に布からこぼれた時は、肩の辺りまでだった気がする。

 今は着物の帯を越え、畳へ届きかけていた。

 そう見えるだけだ。燈夜が逆さに持ったため、後ろへ隠れていた髪が落ちたのだろう。美怜が口を開く前に、イオが人形の頬を指で押した。

 白い皮膚は磁器の硬さではなく、わずかにへこんだ。

「ねえ、聞いてる? 白い子ちゃん」

 イオは人形の耳へ唇を寄せる。

「呪えるなら呪ってみろ」

 手を離した。

 人形は畳へ落ち、横向きに倒れた。

 ごとり、と、頭の中に重いものが詰まっている音がした。

 衝撃で唇がさらに開き、奥歯までが露わになる。その口から細い吐息が漏れた気がして、美怜の首筋が粟立った。

『それ持って帰るな』

『後ろ後ろ後ろ』

『襖から指』

『白い手出てる』

「さっきから後ろって何?」

 美怜が振り向く。

 開け放した襖の向こうには、暗い廊下しかない。

 その隣、閉じたままの襖の合わせ目に、白い筋が挟まっていた。

 細く、節があり、先端に半透明の爪が付いている。

 指だった。

 美怜とちとせが同時に息を止める。

 ライトを向けた瞬間、白い指は襖の奥へ引っ込んだ。紙が微かに震え、向こう側で爪が引っかく。

 かり。

 かり、かり。

 燈夜が襖へ飛びつき、勢いよく開けた。

 押入れだった。

 中には畳まれた布団と、蓋の外れた桐箱しかない。人が隠れられる奥行きではなく、天井板にも動いた跡はなかった。

「ネズミだろ」

「指だったじゃん」

 イオの声は、もう笑っていなかった。

「白いネズミ」

 燈夜が無理に口角を上げる。

 美怜はモニターへ向き直った。画面は警告と命令で埋まり、誰もが同じように人形を置いていけと書いている。

 反対されるほど、胸の中の冷えが別の熱へ変わった。

 ここで従えば、彼らは美怜が怖がったと喜ぶ。逃げた顔だけを切り取られ、何度も笑われる。そんな結末だけは許せなかった。

 美怜は床の人形を指差した。

「決めた。こいつ、持って帰る」

「は?」

 ちとせが顔を上げる。

「〈KOWASU〉の新マスコット。毎回連れてって、呪物とか幽霊とか、片っ端からぶつけようよ。白い子が先に壊れるか、相手が壊れるか」

「家から出すのは駄目」

 ちとせの返事は早かった。

「どうして?」

「隠したものには、隠した理由がある。ここへ縛られてるなら、外へ出した時に何が起きるか分からない」

「本物なら面白いじゃん」

 それは、いつもちとせが口にする言葉だった。

 ちとせは押し黙った。手首の組紐を握る指先から、血の気が失われていく。

 美怜は勝ったように笑い、カメラへ宣言した。

「決定。こいつが〈KOWASU〉の新メンバー。持って帰るなって言ってるやつ、ちゃんと見届けてね。何も起きなかったら、土下座コメントよろしく」

 接続数が跳ね上がる。

 怜吾が機材箱を取りに行くと言い、廊下へ出た。燈夜も煙草を探しながら続き、イオは撮った画像を確認するため、その後を追う。

 美怜は横倒しの人形を見下ろした。

 黒い瞳の奥に、自分の顔が小さく映っている。

 ほんの一瞬、その顔が自分より先に笑った気がした。

「早く来いよ、美怜」

 燈夜の声が玄関から飛ぶ。

「分かってる」

 美怜は人形を残し、ちとせとともに座敷を出た。持ち運ぶための箱を取って、すぐ戻るつもりだった。

 怜吾が低い位置へ置いた予備カメラだけが、無人の座敷を映し続けていた。

 倒れた仏壇。散らばった位牌。濁った水。赤黒い布。

 その中央で、白い市松人形が横たわっている。

 廊下を遠ざかる足音が、五人分重なった。

 音が消える。

 人形の髪が、畳の上をひと房だけ滑った。

 白い首に走るひびがゆっくり開き、顔が廊下の方角へ回り始める。

 ぎ。

 ぎ、ぎ。

 真後ろまで向いた顔の唇から、小さな歯が覗いた。

 そのすべてが、笑うように剥き出しになっていた。

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