ログイン閉じきった障子へ、燈夜の拳が叩き込まれた。
桟が折れ、白い紙が内側へ破れる。怜吾のライトが穴を貫いたが、その向こうにあったのは、染みだらけの畳と空の押入れだけだった。
子どもの形をした影も、笑った口もない。
「ほら、何もいねえ」
燈夜はもう一度殴り、穴を大きくした。さっきまで動けずにいたことを、木と紙の脆さごと打ち消そうとするような乱暴さだった。
「古い家なんだから、傾いて勝手に閉まったんだろ」
「順番に?」
ちとせが低く尋ねる。
「風には流れってもんがあんだよ」
「無風だったけど」
怜吾の指摘に、燈夜の眉が動く。
「じゃあ、おまえが仕込んだんじゃねえの?」
「その言い方、使えるな。仲間割れって見出しにする?」
怜吾は平坦に返し、破れた障子をゆっくり映した。カメラを下ろそうとはしない。液晶の隅には、一万を越えた接続数と、目で追えない速さのコメントが流れ続けていた。
『ガチで閉まった』
『最後の障子に顔あった』 『逃げろ』 『さっきの影どこ?』 『演技下手』美怜は「演技」という二文字を見つけ、喉に引っかかっていた息を笑いへ変えた。
「だってさ。怖がって損した」
カメラへ顔を寄せ、唇を吊り上げる。
「仕込みだと思うなら、最後まで見て暴いてみれば? 途中で逃げたやつは負けね」
震えてはいない。声にも普段通りの張りがある。そう確かめると、心臓の速さは恐怖ではなく興奮だと思えた。
美怜は障子へ中指を立て、階段へ向かった。
「二階、ハズレ。次、一階潰そ」
降りる五人の背後で、破られた紙が微かに鳴った。
誰も振り返らなかった。
*
一階の廊下は、上階よりも湿気が濃かった。
壁紙はところどころ膨れ、天井から垂れた蜘蛛の糸が頬へまとわりつく。燈夜の煙草はいつの間にか火が消えていた。舌打ちしながら火をつけ直しても、先端が赤くなるだけで、ひと息吸うとまた黒く沈む。
「ここ、酸素薄いんじゃね?」
「だったら煙草しまいなよ。先にあんたが消える」
イオは冗談めかして笑ったが、燈夜から離れずに歩いていた。
廊下の突き当たりに、二枚の襖があった。
黄ばんだ紙へ、子どもの手形に似た染みがいくつも重なっている。腰の高さより下ばかりに付き、指先だけが廊下の奥を向いていた。
「この部屋」
ちとせが足を止めた。
「知ってんの?」
「座敷があるって古い間取りに書かれてた。繭守家は人形を渡す前、ここで依頼人と一緒に祈祷したらしいよ」
「その間取り、どこで見たの?」
怜吾がカメラ越しに尋ねた。
ちとせは襖の染みを見たまま、少し遅れて笑う。
「郷土資料。ほら、そういうの探すのが私の役目じゃん」
美怜は会話へ割り込み、襖の取っ手に指をかけた。湿った紙の冷たさがネイルの下へ染みる。
「祈祷部屋、開けまーす」
左右へ一気に引いた。
淀んだ空気が、押し出されるように五人の顔へ触れた。
八畳ほどの座敷だった。中央には低い座卓があり、その上に空の湯呑みが置かれている。壁際の床の間には、色の抜けた掛け軸。隣には天井へ届きそうな黒い仏壇があった。
埃に沈んだ部屋の中で、仏壇の前だけが妙に黒く濡れている。
線香の匂いがした。
庭で嗅いだものより新しく、灰の熱まで残っていそうな濃さだった。
「誰か住んでる?」
イオが小声で言う。
「住んでたら不法侵入じゃん」
美怜が笑うと、コメントが一斉に流れた。
『最初から不法侵入だろ』
『仏壇触るなよ』 『線香あげたの誰』 『座卓の下にいる』怜吾がライトを下げた。
座卓の下には何もいなかった。ただ、畳の上に細長い擦れ跡がある。仏壇から座卓の下まで、何かを這わせたように埃が途切れていた。
燈夜は靴のまま座敷へ入り、仏壇の扉を開いた。
中には位牌が並んでいた。
黒い漆は白く曇り、金文字の多くは剥がれている。その前に、ひび割れた飯椀と水の濁った湯呑みが供えられていた。飯椀の底には、乾いた米粒が数粒こびりついている。
「いつのだよ、これ」
燈夜が指で米粒を弾く。
「やめときなって」
ちとせが言った。
これまでの軽い忠告とは違った。声が短く、口元から笑みが消えている。
「人形は道具でも、仏壇は家の人のものだから」
「家の人、いねえじゃん」
「いないことと、帰ってこないことは同じじゃないよ」
「それ、怪談っぽく言ってるだけだろ」
燈夜は鼻で笑い、最も大きな位牌をつかんだ。カメラへ見せつけるように振ってから、元の場所へ放り込む。位牌同士がぶつかり、乾いた音が座敷へ散った。
どこか遠くで、女の声がした。
あ、と息を呑んだだけのような、か細い声だった。
美怜は廊下を振り返る。暗い廊下の先には玄関から差す機材の光があり、その途中を何か白いものが横切った。
「今、誰か外に――」
言い終えるより先に、燈夜が仏壇の下部を蹴った。
重い音が響き、黒い厨子が壁へぶつかる。中の仏具が倒れ、鈴が一度だけ鳴った。
「出てこいよ。守ってんなら守ってみろ!」
もう一度、足が上がる。
「燈夜、壊すなら画角入って」
怜吾が横へ回った。
「そっちかよ」
イオが吹き出し、美怜も笑った。廊下の白いものについて口にする機会を失い、そのまま忘れたふりをした。
三度目の蹴りで、仏壇が前へ傾いた。
位牌が雪崩れ落ちる。鈴と燭台が畳を転がり、濁った水が黒い筋を引いた。燈夜が側面へ肩を当てると、仏壇は耐えきれず横倒しになった。
地響きに似た衝撃が座敷を揺らす。
背面の薄い板が外れた。
仏壇と壁の間から、赤黒い布の包みが滑り落ちた。
長さは人間の赤子ほどだった。
布には古い血のような染みが広がり、幾重にも巻かれた紐で固く縛られている。転がった拍子に一方の端がほどけ、黒い髪が畳へこぼれた。
「当たり」
燈夜の口元が歪む。
「待って」
ちとせがその腕をつかんだ。
彼女は包みではなく、紐の結び目を見ていた。赤い紐と、汚れて灰色になった白い紐。交差の仕方は五人の手首に巻かれたものと似ていたが、ちとせはそれに触れようとしない。
「奉納人形じゃない」
「何が違うの?」
「奉納するなら、見える場所に置く。箱に入れて名前か願いを書く。こんなふうに仏壇の裏板を外して、壁との隙間へ押し込んだりしない」
ちとせは乾いた唇を舐めた。
「これは祀ったんじゃない。隠したんだ」
その言葉が落ちると、鈴が鳴った。
誰の足も触れていない。畳の上に倒れたまま、ちりん、と一度。
イオの笑顔が引きつる。
「でもさ、誰かが最近仕込んだんじゃない? 布だけ古くして」
「それなら大成功」
怜吾はしゃがみ込み、レンズを包みへ寄せた。液晶画面の中で、髪の一本一本が細く光る。
「触る前の絵、撮れた」
「じゃあ解禁だな」
燈夜はちとせの手を振り払い、布を縛る紐へ指をかけた。
結び目は見た目より脆く、わずかに引いただけで崩れた。赤黒い布が左右へ開き、中に包まれていた顔が現れる。
白い市松人形だった。
白磁のような顔に、額から右目を横切るひびが走っている。頬はふっくらとしているのに、瞳は黒く落ち窪み、光を返さない。色褪せた唇だけがわずかに開いていた。
その隙間に、歯が並んでいる。
米粒ほどの飾りではなかった。前歯には薄い透明感があり、犬歯の先はわずかに尖っている。歯と歯の隙間には茶色い汚れまで入り込み、歯茎にあたる部分は乾いた肉のように暗赤色だった。
甘いような、生臭いような臭いが布の内側から立ち上る。
「うわ」
イオが鼻を押さえながらも、顔を近づけた。
「入れ歯みたい。職人、本気出しすぎじゃない?」
『口の中、本物の歯じゃない?』
『子どもの歯に見える』 『触るな』 『布に包み直せ』 『さっきより髪長くなってる』「本物だって」
美怜が読み上げる。
怜吾はライトを強くし、人形の口元へ向けた。
「歯根までは見えない。骨か樹脂かも分からないな。古い人形に人毛や抜けた乳歯を使う例はある」
「乳歯なら可愛いじゃん」
燈夜は人形の髪をつかみ、一気に持ち上げた。
白い顔が布から抜ける。着物は元の色が分からないほど変色し、裾から白い足袋のような足が垂れた。髪に全体重を預けているはずなのに一本も抜けず、頭皮の下から湿った革を引くような音がした。
ぎ、と人形の口が開く。
燈夜の指が一瞬緩んだ。
「今、動いた?」
「揺れただけだろ」
美怜に答えながら、燈夜は人形を持つ腕を高くした。自分の顔と並べ、煙草を人形の唇へ差し込もうとする。
「吸うか、白いの」
煙草の先が歯に触れた。
かちり。
上下の歯が閉じ、煙草を挟んだ。
燈夜は目を見開いたが、すぐに大声で笑った。
「噛みやがった! こいつ、根性あるじゃん」
首を振るたび、長い黒髪が腕へ巻きつく。
「ちょっと貸して。写真撮る」
イオが人形を受け取った。両手で胴を抱き、頬を寄せる。人形の白い顔と、イオの整った顔が画面の中で並んだ。
「どっちが可愛い?」
『人形』
『右』 『髪、肩までだったよな?』 『今もう腰まである』 『後ろの襖から指出てる』コメントを追っていた美怜は、思わずイオの髪ではなく人形の髪へ目を向けた。
最初に布からこぼれた時は、肩の辺りまでだった気がする。
今は着物の帯を越え、畳へ届きかけていた。
そう見えるだけだ。燈夜が逆さに持ったため、後ろへ隠れていた髪が落ちたのだろう。美怜が口を開く前に、イオが人形の頬を指で押した。
白い皮膚は磁器の硬さではなく、わずかにへこんだ。
「ねえ、聞いてる? 白い子ちゃん」
イオは人形の耳へ唇を寄せる。
「呪えるなら呪ってみろ」
手を離した。
人形は畳へ落ち、横向きに倒れた。
ごとり、と、頭の中に重いものが詰まっている音がした。
衝撃で唇がさらに開き、奥歯までが露わになる。その口から細い吐息が漏れた気がして、美怜の首筋が粟立った。
『それ持って帰るな』
『後ろ後ろ後ろ』 『襖から指』 『白い手出てる』「さっきから後ろって何?」
美怜が振り向く。
開け放した襖の向こうには、暗い廊下しかない。
その隣、閉じたままの襖の合わせ目に、白い筋が挟まっていた。
細く、節があり、先端に半透明の爪が付いている。
指だった。
美怜とちとせが同時に息を止める。
ライトを向けた瞬間、白い指は襖の奥へ引っ込んだ。紙が微かに震え、向こう側で爪が引っかく。
かり。
かり、かり。
燈夜が襖へ飛びつき、勢いよく開けた。
押入れだった。
中には畳まれた布団と、蓋の外れた桐箱しかない。人が隠れられる奥行きではなく、天井板にも動いた跡はなかった。
「ネズミだろ」
「指だったじゃん」
イオの声は、もう笑っていなかった。
「白いネズミ」
燈夜が無理に口角を上げる。
美怜はモニターへ向き直った。画面は警告と命令で埋まり、誰もが同じように人形を置いていけと書いている。
反対されるほど、胸の中の冷えが別の熱へ変わった。
ここで従えば、彼らは美怜が怖がったと喜ぶ。逃げた顔だけを切り取られ、何度も笑われる。そんな結末だけは許せなかった。
美怜は床の人形を指差した。
「決めた。こいつ、持って帰る」
「は?」
ちとせが顔を上げる。
「〈KOWASU〉の新マスコット。毎回連れてって、呪物とか幽霊とか、片っ端からぶつけようよ。白い子が先に壊れるか、相手が壊れるか」
「家から出すのは駄目」
ちとせの返事は早かった。
「どうして?」
「隠したものには、隠した理由がある。ここへ縛られてるなら、外へ出した時に何が起きるか分からない」
「本物なら面白いじゃん」
それは、いつもちとせが口にする言葉だった。
ちとせは押し黙った。手首の組紐を握る指先から、血の気が失われていく。
美怜は勝ったように笑い、カメラへ宣言した。
「決定。こいつが〈KOWASU〉の新メンバー。持って帰るなって言ってるやつ、ちゃんと見届けてね。何も起きなかったら、土下座コメントよろしく」
接続数が跳ね上がる。
怜吾が機材箱を取りに行くと言い、廊下へ出た。燈夜も煙草を探しながら続き、イオは撮った画像を確認するため、その後を追う。
美怜は横倒しの人形を見下ろした。
黒い瞳の奥に、自分の顔が小さく映っている。
ほんの一瞬、その顔が自分より先に笑った気がした。
「早く来いよ、美怜」
燈夜の声が玄関から飛ぶ。
「分かってる」
美怜は人形を残し、ちとせとともに座敷を出た。持ち運ぶための箱を取って、すぐ戻るつもりだった。
怜吾が低い位置へ置いた予備カメラだけが、無人の座敷を映し続けていた。
倒れた仏壇。散らばった位牌。濁った水。赤黒い布。
その中央で、白い市松人形が横たわっている。
廊下を遠ざかる足音が、五人分重なった。
音が消える。
人形の髪が、畳の上をひと房だけ滑った。
白い首に走るひびがゆっくり開き、顔が廊下の方角へ回り始める。
ぎ。
ぎ、ぎ。
真後ろまで向いた顔の唇から、小さな歯が覗いた。
そのすべてが、笑うように剥き出しになっていた。
夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに