Mag-log in閉じきった障子へ、燈夜の拳が叩き込まれた。
桟が折れ、白い紙が内側へ破れる。怜吾のライトが穴を貫いたが、その向こうにあったのは、染みだらけの畳と空の押入れだけだった。
子どもの形をした影も、笑った口もない。
「ほら、何もいねえ」
燈夜はもう一度殴り、穴を大きくした。さっきまで動けずにいたことを、木と紙の脆さごと打ち消そうとするような乱暴さだった。
「古い家なんだから、傾いて勝手に閉まったんだろ」
「順番に?」
ちとせが低く尋ねる。
「風には流れってもんがあんだよ」
「無風だったけど」
怜吾の指摘に、燈夜の眉が動く。
「じゃあ、おまえが仕込んだんじゃねえの?」
「その言い方、使えるな。仲間割れって見出しにする?」
怜吾は平坦に返し、破れた障子をゆっくり映した。カメラを下ろそうとはしない。液晶の隅には、一万を越えた接続数と、目で追えない速さのコメントが流れ続けていた。
『ガチで閉まった』
『最後の障子に顔あった』 『逃げろ』 『さっきの影どこ?』 『演技下手』美怜は「演技」という二文字を見つけ、喉に引っかかっていた息を笑いへ変えた。
「だってさ。怖がって損した」
カメラへ顔を寄せ、唇を吊り上げる。
「仕込みだと思うなら、最後まで見て暴いてみれば? 途中で逃げたやつは負けね」
震えてはいない。声にも普段通りの張りがある。そう確かめると、心臓の速さは恐怖ではなく興奮だと思えた。
美怜は障子へ中指を立て、階段へ向かった。
「二階、ハズレ。次、一階潰そ」
降りる五人の背後で、破られた紙が微かに鳴った。
誰も振り返らなかった。
*
一階の廊下は、上階よりも湿気が濃かった。
壁紙はところどころ膨れ、天井から垂れた蜘蛛の糸が頬へまとわりつく。燈夜の煙草はいつの間にか火が消えていた。舌打ちしながら火をつけ直しても、先端が赤くなるだけで、ひと息吸うとまた黒く沈む。
「ここ、酸素薄いんじゃね?」
「だったら煙草しまいなよ。先にあんたが消える」
イオは冗談めかして笑ったが、燈夜から離れずに歩いていた。
廊下の突き当たりに、二枚の襖があった。
黄ばんだ紙へ、子どもの手形に似た染みがいくつも重なっている。腰の高さより下ばかりに付き、指先だけが廊下の奥を向いていた。
「この部屋」
ちとせが足を止めた。
「知ってんの?」
「座敷があるって古い間取りに書かれてた。繭守家は人形を渡す前、ここで依頼人と一緒に祈祷したらしいよ」
「その間取り、どこで見たの?」
怜吾がカメラ越しに尋ねた。
ちとせは襖の染みを見たまま、少し遅れて笑う。
「郷土資料。ほら、そういうの探すのが私の役目じゃん」
美怜は会話へ割り込み、襖の取っ手に指をかけた。湿った紙の冷たさがネイルの下へ染みる。
「祈祷部屋、開けまーす」
左右へ一気に引いた。
淀んだ空気が、押し出されるように五人の顔へ触れた。
八畳ほどの座敷だった。中央には低い座卓があり、その上に空の湯呑みが置かれている。壁際の床の間には、色の抜けた掛け軸。隣には天井へ届きそうな黒い仏壇があった。
埃に沈んだ部屋の中で、仏壇の前だけが妙に黒く濡れている。
線香の匂いがした。
庭で嗅いだものより新しく、灰の熱まで残っていそうな濃さだった。
「誰か住んでる?」
イオが小声で言う。
「住んでたら不法侵入じゃん」
美怜が笑うと、コメントが一斉に流れた。
『最初から不法侵入だろ』
『仏壇触るなよ』 『線香あげたの誰』 『座卓の下にいる』怜吾がライトを下げた。
座卓の下には何もいなかった。ただ、畳の上に細長い擦れ跡がある。仏壇から座卓の下まで、何かを這わせたように埃が途切れていた。
燈夜は靴のまま座敷へ入り、仏壇の扉を開いた。
中には位牌が並んでいた。
黒い漆は白く曇り、金文字の多くは剥がれている。その前に、ひび割れた飯椀と水の濁った湯呑みが供えられていた。飯椀の底には、乾いた米粒が数粒こびりついている。
「いつのだよ、これ」
燈夜が指で米粒を弾く。
「やめときなって」
ちとせが言った。
これまでの軽い忠告とは違った。声が短く、口元から笑みが消えている。
「人形は道具でも、仏壇は家の人のものだから」
「家の人、いねえじゃん」
「いないことと、帰ってこないことは同じじゃないよ」
「それ、怪談っぽく言ってるだけだろ」
燈夜は鼻で笑い、最も大きな位牌をつかんだ。カメラへ見せつけるように振ってから、元の場所へ放り込む。位牌同士がぶつかり、乾いた音が座敷へ散った。
どこか遠くで、女の声がした。
あ、と息を呑んだだけのような、か細い声だった。
美怜は廊下を振り返る。暗い廊下の先には玄関から差す機材の光があり、その途中を何か白いものが横切った。
「今、誰か外に――」
言い終えるより先に、燈夜が仏壇の下部を蹴った。
重い音が響き、黒い厨子が壁へぶつかる。中の仏具が倒れ、鈴が一度だけ鳴った。
「出てこいよ。守ってんなら守ってみろ!」
もう一度、足が上がる。
「燈夜、壊すなら画角入って」
怜吾が横へ回った。
「そっちかよ」
イオが吹き出し、美怜も笑った。廊下の白いものについて口にする機会を失い、そのまま忘れたふりをした。
三度目の蹴りで、仏壇が前へ傾いた。
位牌が雪崩れ落ちる。鈴と燭台が畳を転がり、濁った水が黒い筋を引いた。燈夜が側面へ肩を当てると、仏壇は耐えきれず横倒しになった。
地響きに似た衝撃が座敷を揺らす。
背面の薄い板が外れた。
仏壇と壁の間から、赤黒い布の包みが滑り落ちた。
長さは人間の赤子ほどだった。
布には古い血のような染みが広がり、幾重にも巻かれた紐で固く縛られている。転がった拍子に一方の端がほどけ、黒い髪が畳へこぼれた。
「当たり」
燈夜の口元が歪む。
「待って」
ちとせがその腕をつかんだ。
彼女は包みではなく、紐の結び目を見ていた。赤い紐と、汚れて灰色になった白い紐。交差の仕方は五人の手首に巻かれたものと似ていたが、ちとせはそれに触れようとしない。
「奉納人形じゃない」
「何が違うの?」
「奉納するなら、見える場所に置く。箱に入れて名前か願いを書く。こんなふうに仏壇の裏板を外して、壁との隙間へ押し込んだりしない」
ちとせは乾いた唇を舐めた。
「これは祀ったんじゃない。隠したんだ」
その言葉が落ちると、鈴が鳴った。
誰の足も触れていない。畳の上に倒れたまま、ちりん、と一度。
イオの笑顔が引きつる。
「でもさ、誰かが最近仕込んだんじゃない? 布だけ古くして」
「それなら大成功」
怜吾はしゃがみ込み、レンズを包みへ寄せた。液晶画面の中で、髪の一本一本が細く光る。
「触る前の絵、撮れた」
「じゃあ解禁だな」
燈夜はちとせの手を振り払い、布を縛る紐へ指をかけた。
結び目は見た目より脆く、わずかに引いただけで崩れた。赤黒い布が左右へ開き、中に包まれていた顔が現れる。
白い市松人形だった。
白磁のような顔に、額から右目を横切るひびが走っている。頬はふっくらとしているのに、瞳は黒く落ち窪み、光を返さない。色褪せた唇だけがわずかに開いていた。
その隙間に、歯が並んでいる。
米粒ほどの飾りではなかった。前歯には薄い透明感があり、犬歯の先はわずかに尖っている。歯と歯の隙間には茶色い汚れまで入り込み、歯茎にあたる部分は乾いた肉のように暗赤色だった。
甘いような、生臭いような臭いが布の内側から立ち上る。
「うわ」
イオが鼻を押さえながらも、顔を近づけた。
「入れ歯みたい。職人、本気出しすぎじゃない?」
『口の中、本物の歯じゃない?』
『子どもの歯に見える』 『触るな』 『布に包み直せ』 『さっきより髪長くなってる』「本物だって」
美怜が読み上げる。
怜吾はライトを強くし、人形の口元へ向けた。
「歯根までは見えない。骨か樹脂かも分からないな。古い人形に人毛や抜けた乳歯を使う例はある」
「乳歯なら可愛いじゃん」
燈夜は人形の髪をつかみ、一気に持ち上げた。
白い顔が布から抜ける。着物は元の色が分からないほど変色し、裾から白い足袋のような足が垂れた。髪に全体重を預けているはずなのに一本も抜けず、頭皮の下から湿った革を引くような音がした。
ぎ、と人形の口が開く。
燈夜の指が一瞬緩んだ。
「今、動いた?」
「揺れただけだろ」
美怜に答えながら、燈夜は人形を持つ腕を高くした。自分の顔と並べ、煙草を人形の唇へ差し込もうとする。
「吸うか、白いの」
煙草の先が歯に触れた。
かちり。
上下の歯が閉じ、煙草を挟んだ。
燈夜は目を見開いたが、すぐに大声で笑った。
「噛みやがった! こいつ、根性あるじゃん」
首を振るたび、長い黒髪が腕へ巻きつく。
「ちょっと貸して。写真撮る」
イオが人形を受け取った。両手で胴を抱き、頬を寄せる。人形の白い顔と、イオの整った顔が画面の中で並んだ。
「どっちが可愛い?」
『人形』
『右』 『髪、肩までだったよな?』 『今もう腰まである』 『後ろの襖から指出てる』コメントを追っていた美怜は、思わずイオの髪ではなく人形の髪へ目を向けた。
最初に布からこぼれた時は、肩の辺りまでだった気がする。
今は着物の帯を越え、畳へ届きかけていた。
そう見えるだけだ。燈夜が逆さに持ったため、後ろへ隠れていた髪が落ちたのだろう。美怜が口を開く前に、イオが人形の頬を指で押した。
白い皮膚は磁器の硬さではなく、わずかにへこんだ。
「ねえ、聞いてる? 白い子ちゃん」
イオは人形の耳へ唇を寄せる。
「呪えるなら呪ってみろ」
手を離した。
人形は畳へ落ち、横向きに倒れた。
ごとり、と、頭の中に重いものが詰まっている音がした。
衝撃で唇がさらに開き、奥歯までが露わになる。その口から細い吐息が漏れた気がして、美怜の首筋が粟立った。
『それ持って帰るな』
『後ろ後ろ後ろ』 『襖から指』 『白い手出てる』「さっきから後ろって何?」
美怜が振り向く。
開け放した襖の向こうには、暗い廊下しかない。
その隣、閉じたままの襖の合わせ目に、白い筋が挟まっていた。
細く、節があり、先端に半透明の爪が付いている。
指だった。
美怜とちとせが同時に息を止める。
ライトを向けた瞬間、白い指は襖の奥へ引っ込んだ。紙が微かに震え、向こう側で爪が引っかく。
かり。
かり、かり。
燈夜が襖へ飛びつき、勢いよく開けた。
押入れだった。
中には畳まれた布団と、蓋の外れた桐箱しかない。人が隠れられる奥行きではなく、天井板にも動いた跡はなかった。
「ネズミだろ」
「指だったじゃん」
イオの声は、もう笑っていなかった。
「白いネズミ」
燈夜が無理に口角を上げる。
美怜はモニターへ向き直った。画面は警告と命令で埋まり、誰もが同じように人形を置いていけと書いている。
反対されるほど、胸の中の冷えが別の熱へ変わった。
ここで従えば、彼らは美怜が怖がったと喜ぶ。逃げた顔だけを切り取られ、何度も笑われる。そんな結末だけは許せなかった。
美怜は床の人形を指差した。
「決めた。こいつ、持って帰る」
「は?」
ちとせが顔を上げる。
「〈KOWASU〉の新マスコット。毎回連れてって、呪物とか幽霊とか、片っ端からぶつけようよ。白い子が先に壊れるか、相手が壊れるか」
「家から出すのは駄目」
ちとせの返事は早かった。
「どうして?」
「隠したものには、隠した理由がある。ここへ縛られてるなら、外へ出した時に何が起きるか分からない」
「本物なら面白いじゃん」
それは、いつもちとせが口にする言葉だった。
ちとせは押し黙った。手首の組紐を握る指先から、血の気が失われていく。
美怜は勝ったように笑い、カメラへ宣言した。
「決定。こいつが〈KOWASU〉の新メンバー。持って帰るなって言ってるやつ、ちゃんと見届けてね。何も起きなかったら、土下座コメントよろしく」
接続数が跳ね上がる。
怜吾が機材箱を取りに行くと言い、廊下へ出た。燈夜も煙草を探しながら続き、イオは撮った画像を確認するため、その後を追う。
美怜は横倒しの人形を見下ろした。
黒い瞳の奥に、自分の顔が小さく映っている。
ほんの一瞬、その顔が自分より先に笑った気がした。
「早く来いよ、美怜」
燈夜の声が玄関から飛ぶ。
「分かってる」
美怜は人形を残し、ちとせとともに座敷を出た。持ち運ぶための箱を取って、すぐ戻るつもりだった。
怜吾が低い位置へ置いた予備カメラだけが、無人の座敷を映し続けていた。
倒れた仏壇。散らばった位牌。濁った水。赤黒い布。
その中央で、白い市松人形が横たわっている。
廊下を遠ざかる足音が、五人分重なった。
音が消える。
人形の髪が、畳の上をひと房だけ滑った。
白い首に走るひびがゆっくり開き、顔が廊下の方角へ回り始める。
ぎ。
ぎ、ぎ。
真後ろまで向いた顔の唇から、小さな歯が覗いた。
そのすべてが、笑うように剥き出しになっていた。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押